泣き叫ぶとは
泣き叫びたい時が出来たな、と今更思ったりする。
仕事やめる前、限界の時はそんなこと考える余裕もなく、
詩を詠むこともなく、音楽も響くこともなくなって、「今死んだら」「きっと悲しむ」「きつい」「何で上手くできないんだろう」「追いつきたいだけなのに」その繰り返しだった。後悔と反省が残った。
秋に猫が死んで、よく覚えてる。
そういう時に限って、何もなかったころや、出会った時のことばかり思い出す。
高3の夏、図書館に行く途中の交差点で、車に轢かれそうなのを近くにいた大学生と拾って病院に連れて行った。そのまま家で飼うことになった。
猫は飼ったことがなかった。片手で持てた。タコのように柔らかすぎてびっくりした。真っ黒の小さな、動きまわる毛並みの生物。
家には思い出すきっかけが多すぎる。
こたつの中が要塞と化し、足を突っ込んでは噛みつかれる。ストーブの前で、まるで芋虫かトトロの尻尾のようにだらんと寝ている。
朝になると2階の寝室まで登ってはにゃーんと(猫撫で声とはまさに)鳴く。
リビングの大きな窓からずっと外を見る後ろ姿。玄関に出ようものならドアの前で待ち構える。
ソファの上で寝転んでいる。お風呂から上がった後に髪を乾かす時は、大体いつもそう。
暑い時は廊下の涼しいところに寝そべっている。
妹も母も悲しんでた。4人で火葬場に車で運んだ。最後に撫でた。
源氏物語では、「あの日手指に巻いた黒髪…!!」ていう表現があるんだけど、もしかしてこんな感じか、と何だか違った方向に僭越ながら思った。
携帯の写真フォルダ。動画まである。
7日経って一度、仕事で阿蘇から帰るとき、本当に真っ赤で初めて見るような夕日があった。
外をずっと眺めて出たがってた子だった。
あんな景色を見に行ったのかと、あちらが西方浄土かと、やっぱり見当違いに思いながら泣いた。その時少し声は出せた。
そして今は、ふと泣き叫びたくなる時がある。わんわん泣いて、吐き出したい時がある。1番可能性があるのは車の中なんだけど。
でもそれも何故か出来ないな、と客観視している自分もいる。
実行できないで、気持ちだけくすぶって消化できないで、時折じんわり染み出すのを見ている。
少しずつ、どうか消化したいのと、見送りたいのと、寂しいのと、お礼を言いたいけど泣くから言えないのと。色々。